名無し


そういえばお前、名はなんと言うのだ。
聞いたことに他意など無かった。

坂井の化猫騒動以来一緒にいるものの、
そういえばこの男の名を自分は聞いたことが無い。

そのことにふと気づいたが故の何気ない一言。
言った小田島にしてみれば、明日は晴れるかといった程度の
他愛の無い問いかけだった。

薬売りは問われたことがわからぬとでも言いたげな沈黙を返す。
とたん居心地悪くなったのは小田島だ。
席を外している加世が早く戻ってくればいい。

そんなことを考え出した矢先。
いまさらのように薬売りが言葉をつむいだ。
「聞いて、どうするんだ」
声はいつもの人を食ったような調子が含まれてはいたものの
少しばかりいつもと違う何かも混じっていて。
小田島はあわてて咳払いした。

「別にどうということも無い、ただ聞いたことが無いと思ってな」
「…ほぅ」
「言いたくないのならいいのだ、別に」
無性に攻められている気分になって、あわてて続ける。
再びの沈黙は今度は短く、小さく薬売りが笑ったような息をした。

「知りたいなら、教えてやっても構わないが、ね」
その言葉に小田島は薬売りに視線を移す。
いずこを見ているとも定まらぬような目で、おそらく足元の少し先を見ながら
薬売りはつぶやいた。
「名は、魂を定めるもの。名を知ることは相手の魂を掴むこと。
 物の怪の形を得ると同じ――」
薬売りの視線が小田島に定まった。
「小田島様」
その顔に、小田島は息をつめた。
「それでも知りたいと仰るなら、教えてさしあげます、よ」

ざあ、と風が葉を鳴らしていく。
沈黙というよりも、緊張。
それを打ち破ったのは小田島の声だった。
「ええい!」
と音が鳴りそうな勢いで一歩、薬売りに近づくと、
羽織を脱いで薬売りに叩きつけた。
いや、叩きつける勢いで被せた。

面食らったのは薬売り。
羽織のしたで一瞬呆け、羽織に手をかけた。
「いったいなんだ…」
どかそうとした羽織は小田島に抑えられている。
「…小田島、さま?」
「そのような顔でいうやつがあるか!」
返った言葉にまた呆ける。
「俺が、どんな顔をしていたって、いうんです?」
「む、なんだ、その」
薬売りのこと、表情がはっきりと変わったわけではない。
ただ。ただ、そんな気がしただけだ。
そんな気配を纏っているとそう思っただけだ。
「……つらそうな」
言いにくそうに呟くと、羽織の下で薬売りは黙り込む。
小さく声が聞こえた。
「そんなつもりは、無かったんですが…ね」

薬売りの手が、今度は小田島の手にかかる。
緩やかな動作でその手を外し、羽織を取った薬売りは、
先刻の問いなど無かったかのようにいつもの顔。
「権兵衛とでも、しておきましょうか」
名前、と薬売りは呟いた。



言いたくないのか言えないのか、無かったのか忘れたのか。それさえ



------------------------------------------------------------------------

怪とモノノ怪で口調が違うから悩む。
薬売りの格好や行動っていちいち僻邪的な部分があって面白いんですが、
名前はどうなんだろう。みたいな。

おまけ付き(小田島←薬売り)





モドル