酔ひやみ


新幹線から乗り継いだ在来線で3時間半。
たどり着いた祖母の家の、最寄り駅は人影も無く、
ただその前に伸びる道の向こうの緑色が熱に煽られ揺らめいていた。
立っているだけで額に滲む汗をこれまた汗滲む腕で拭う。
夏の日は長く、5時をまわったこの時刻でも夕暮れはどこか遠く、風はまだ熱をはらむ。
携帯のディスプレイでは電波の入りを示すあのしるしが、頼りなげに1本だけ立っていた。
場違いな電子音の後から久しぶりに聞く声が、やはりどこか場違いな不自然さを帯びて耳に届く。
迎えに来ると言う伯母に途中まで歩いていくと告げ、携帯を閉じた。
鳴りを潜めた油蝉に代わり、西に茜を刷き始めた空に蜩の声が染みていく。
一度日が暮れかければ、後は早い。
山際へ向かうせいもあり、歩調を速めたところで宵闇はあっという間に周囲を包んでいった。
一本道、時折四辻。遠く太鼓の音がするのは、明日に控えた祭りの稽古か。

  誰そ彼時に、子供が一人で歩くのは、感心できませんぜ

ざあと稲穂を揺らしていく風に混ざって、ふと声が聞こえた気がした。
振り返り目を細めてもそこには誰もいない。
もちろん行く末にも、人影は、ない。
音だけで通り過ぎるそれは、あの日の幻だ。



その声に、弾かれたように振り返る。
子供ながらにその声を耳に心地よく感じたことが、どこか恥ずかしくもあった。
「…誰」
蜩の最後の一声が、遠い遠い赤紫の空へ吸い込まれて消えていく。
宵の入りの道に、目の覚めるような派手な色合いの着物を纏ってその男は立っていた。
背に子供の身の丈ほどもある大きな箱を負っているのに高下駄の足元はふらつきもしない。
髪で半ば隠れたような顔には、朱の化粧。
右手に持つ長物についた鈴が、りんと澄んだ音を立てた。
明らかに異質なその男に、反射的に怯えが走ったか。男は小さく笑った。
「そんなに、怖がらないで下さい、よ。ただの、薬売り、ですから」
「薬売り…?」
聞きなれない言葉に鸚鵡返しに問いかける。
「おや…知りませんか。置き薬、売りにくるでしょう…あの仕事です、よ」
「そんな派手な格好で来る人なんていないよ」
「商売ってのは、目立った方が勝ち、なんでね」
とにかく。そう男は言う。りん。どこかで鈴の音がした。
「…早く、帰ったほうがいい」
言いながらその目は、こちらではなくどこか遠く、闇の中を見据えていた。
「最近、この辺りじゃあ、神隠しが、多いんですよ」
かちかちと、すぐそばで、何かが鳴る。
神隠しという言葉は、目の前の男によく似た響きで、鼓膜に染みた。
「もし、帰る道すがら…人影をみても、向こうに名を呼ばれるまで、声をかけちゃいけませんぜ」
物の怪はあんたを知らない。
男が掲げた長物の、先の鈴が音を立てて。それに追われるように走り出した。



「そんな派手な格好した置き薬屋さん、この辺にはこないわよ」
帰って男のことを話してみれば、伯母は怪訝そうにそう言った。
思えば身形だけが異質だったのではなく、この夏の最中にあの男は汗一つかいていなかった。
神隠しという言葉のもつどこか甘い誘惑と似た、異界へと誘う何か。
宵闇の中、あの日の男の声が、たった今耳元で囁かれたように鮮明に息を吹き返す。
闇の向こうに人影が見えた。伯母との待ち合わせの場所はこのあたりのはずだった。
人影は、手を振ってくるのに、けして声をかけてはこない。
男のいったあの言葉は、ここでは常識なのか。
待ち人と認識できていないから躊躇っているのか。
それともあれは、伯母でなしに。
ぐるぐると、幻が回る。
宵闇に潜んだ異界の空気に酔ったように、視界が歪んだ。



どこか遠くで鈴の音一つ、よくよく隠し神に魅入られる――



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異界(他界でもいいが)とか妖怪とか好きなのは周知の事実ですが、
中でも神隠しというモチーフは大好きです、ええ自分でも呆れるほど。
KAKURENBOという短編アニメがあるんですが、神隠しネタではあれ神だとおもう(蝶関係ない)。




モドル